毛利顧問の ”皆さんお元気ですか” 令和8年7月22日

毛利顧問の ”皆さんお元気ですか” 令和8年7月22日

皆さん、お元気ですか。本日をもって私、毛利昭は83歳を迎えます。83歳ですよ。驚くべき高齢ですが成ってみると何てことの無い年寄です。父は93歳、母は84歳もの天寿を全うしておりましたので、もう少しは生き延びられるのではないかと期待しております。仲間を観ても頑張っている先輩も多く、共に盃を交わしたりしておりますが、まだまだ生きながらえる気力も体力もあり、参考にさせてもらっております。などと83歳を迎えた日を切り口に、今回も毛利のアドレス帳に載っている方々へBCCにて配信しております。メーリングリスト該当者は外したつもりでしたが、混入しておりましたらご容赦ください。

 前回は黒澤作品の「羅生門」を取り上げました。「一つの殺人事件についての関係者の証言が、全て食い違う」と言う構成で、人間のエゴや真実の曖昧さを描いた作品で、原作は芥川龍之介の「藪の中」と言う事でした。などと、映画評論家もどきの論を垂れておりましたが、今回は「木挽町の仇討ち」についてです。あまり知られてはおりませんが、原作は永井紗耶子と言う方で、直木賞と山本周五郎賞を受賞した作品です。話題作が出ると家内が勝手に買ってくるので読む羽目になった為に目にした小説であります。

 大まかなあらすじは「文化7年の雪の夜、江戸の芝居小屋「森田座」の近くで、若く美しい武士伊納菊之助が、父の仇である男を討ち果たした」ところから始まっております。「菊之助の刃は男を袈裟懸けに切り抜き、鮮血が飛び散る」様が鮮やかに描かれております。それを見た人々は見事な立ち回りを称賛し、江戸市中の「美談」として評判となるのです。

それから暫く経ったある日、菊之助の縁者と名乗る武士が現れ、仇討ちの顛末を聞いて回る構成になっております。木戸芸者と呼ばれる呼び込みの男を始め、芝居小屋で殺陣を教える元武士の男や、大道具・小道具の男やその女房などの話から、仇討ちの全貌が明らかになっていくと言う筋立てになっております。先の「羅生門」とは逆の筋立てで、関係者の話を聞けば聞くほど仇討ちの実態が浮かび上がるのであります。その結果は本や映画でご覧ください。

と、言う通り、この小説は映画にもなっているのでありますが、私は見損なってしまいました。最近は、映画がかかっていても「その内に」と思っているうち機会を逃してしまうのであります。動きが鈍いですね。という訳で映画を観をことは出来ませんでしたが、気になったのは「木挽町」と言う地名です。

私がたまに散歩する路地に「木挽町通り」と呼ばれる路地があるのです。今は「銀座」に統合されておりますが、昔は、芝居小屋(森田座や新富座など)の立ち並ぶ賑わいのある小道だったとの事です。その証拠に、今でも通りの突き当りには「歌舞伎座」が鎮座してますし、路地には「新橋演舞場」がその威容を誇っております。この路地に並行して「首都高速道路」が走っておりますが、昔、ここには「築地川」と呼ばれる川が流れていたのであります。

 芝居小屋と築地川、両者が揃えば江戸と芝居の世界ですよね。そもそも「木挽き」とは樵の事で、江戸城普請のため各地から集められた樵や大工などが住んでいた地区を「木挽町」と呼んでいたのです。職人の街ですから威勢も良く、「森田座」の様な芝居小屋も繁盛していたとのことであります。森田座なる芝居小屋を私は知りませんでしたが、小説を読めばかなり繫盛した小屋だった模様です。今でいえばどのあたりになるかは不明ですが、歌舞伎座の辺りではないかと推察しております。

まあ、江戸のど真ん中での仇討ちですから、人々の話題に成るのは当然ですし世の流れだったのでしょう。更に、雪の夜で、白い仇討ち装束に身を包んだ若者が、父の仇討ちを果たし、返り血を浴びた白装束が紅く染まり、場には飛び散った鮮血が落ちている。などは、芝居気たっぷりですね。映画は観ておりませんが情景は目に浮かびます。作者も上手いですね。

 この川(築地川・楓川など)も関東大震災の折はごみ捨て場になったりしておりましたが、首都高速道路建設の際に掘割となり、川水は道路の下や側壁に閉じ込められ、川筋に沿った高速道路が出来上がっているのであります。時は、東京五輪の開催を控え外国人を迎えるため、道路の整備が突貫工事で行われていた頃なのであります。特に高速道路は、これまで建設した経験を持たなかったため苦労した訳です。特に「用地買収」には苦労したとみえ、出来るだけ用地買収の少ないあるいは買収の必要のない川の上などに道路を造らざるを得なかったのであります。

その為、出来がった高速道路はジェットコースターの様に上に行ったり下に行ったりで不評でしたが、その橋を設計したり架設する技術は磨かれ、日本は世界に冠たる橋梁技術を誇る国になったのであります。これを機に、橋梁事業が目白押しとなり、世界に誇る「本州四国連絡橋」が三本も作られる様になったのであります。

この様に私が話題にしたいのは、我が国の土木技術の発展と進歩です。これ等の設計や施工には、当時の工業高校の卒業生が関わっていたのです。その時期は私が教鞭を執っていた頃と重なりますが、ワルもいましたが優秀な生徒も多かったですね。二クラス(定員80名)もの土木科(当時は建設科と称していた)があり、三年時になると「設計コース」と「施工コース」に分かれて授業が行われており、就職先は殆どが名の知れたコンサルタントや土木建築の会社でした。今でいうゼネラルコンストラクション、ゼネコンですね。

戦後間もない頃の東京都の中学生が進路として選択したのは、工業高校か日比谷高校かのどちらかでした。それ程の人気のあった工業高校でしたが「大学進学」の掛け声には抗しきれず、次第に人気を下げて行ったのであります。そして、ネットや人工知能と融合したカリキュラムの「工科高校」へと、流れが進んで行ったのであります。機械、電気、土木など単体の科目から複合した技術を学ぶ学校へと進化し、今を迎えているのであります。

これ等の「栄枯盛衰」を肌で感じながら現場に居続けたことを誇りに思っておりますし、先の大戦で灰塵と化した国土を蘇らせ、世界に冠たる技術立国に育て上げた背景には、工業高校生の活躍があったと言われますが、その一角を担えたと言う自負は今でも有しております。

令和8722日    毛利

   

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