皆さん、お元気ですか。今回もネパール報告第三段です。条件は以前と同様です。ご容赦下さい。
前回も連続してのネパール紀行でした。今回も少々追記させていただきます。ネパールの魅力は何かと問われれば(誰も問うてはおりませんが)何と言っても山や渓谷など大自然のスケールの違いが魅力の一つですね。第二はその歴史的な背景です。ヒマラヤの麓に「ムスタン」と呼ばれる王国があり、その国が平成の時代まで鎖国を続けておりました。と、言うだけで歴史のロマンが浮かび、果てしない夢にいざなってくれます。
昔、徒歩で往復10日は要すと言われる秘境に、ムスタンと呼ばれる王国があった。その王国にはカンガンと呼ばれる王女がおりました。彼女は年頃になると留学先に日本を選び、慶應義塾大学に入学して来たのです。そして・・・・と文が続けば一つの小説にもなるではありませんか。
まあ、現実には国王一族は首都であったローマンタンを離れ、カトマンズに住んでいるとの事ですが、そんな事は如何でも良いのです。展開次第では、ドイツの戯曲「アルトハイデルベルグ」の様な名作にもなりそうではありませんか。兎に角、そんな事を考えるだけでも楽しくなりますね。ドイツの戯曲は皇太子と酒場の女給が主人公でしたが、男女が変わっても面白いですね。
しかし、現実はそれほど甘くなく、我々がネパールに行く直前には前述した暴動が市内を席巻し、賄賂に塗れた政府高官の屋敷が焼き討ちに遭い、それが下火になった途端カトマンズ市内はゲリラ豪雨に見舞われ、カトマンズ市内から四方に延びる道路も冠水し、ガンジス川に続くと言われ聖なる川と崇められているバグマッテイ川が氾濫し、市内の交通も麻痺しておりました。
我々が滞在している間は天候も落ち着いておりましたが、我々がネパールを発った二日後にインド洋に発生したサイクロンのあおりを受け、ヒマラヤ全土に雪が降り、我々が走破したローマンタンへの路も閉鎖されたとの事でした。彼の国はこの様な天災は防ぎようがなく運を天に任せるしか術がありません。私の友人は先に記したジョンソンの飛行場で数日の足止めを食らい、始業式に辛うじて間に合わせた方もおられます。私、個人は「晴れ男」を任じておりますので、その様な危険な目には遭った事が有りませんが、今回は疲れましたね。800kmに及ぶ悪路は年寄りには過酷でした。
先ほどアルトハイデルベルグの話をしましたが、ハイデルベルクはドイツの地方都市です。先の大戦の戦禍にも遭わなかったと言う事もあり、歴史ある都市として観光客が押し寄せております。私も二度ほどこの都市を訪れ、ハイデルベルグ城からネッカー川に架かる橋まで歩いた記憶があります。ライン川との合流地点からは船でライン下りに興じ、沿岸に展開する古城群を眺めたものでした。確かローレライの像もありましたね。驚いたのは隅田川ほどしかない幅の川が、タンカーや商船の通り道として発展している事でした。
確かにドイツでは北海にそそぐライン川とエルベ川が海上輸送を引き受け、陸路のアウトバーンと共にドイツの物流を担っております。これ等大河川に沿って展開される古城群は、我が国の古城群に勝るとも劣らない景観をもって、我々の目を楽しませてくれます。特にノイシュバンシュタイン城は、その優雅な姿から「白鳥の城」とも飛ばれ、人気娯楽施設のテーマパークの「シンデレラ城」のモデルとしても知られているのであります。この城の絶景の場を求めてガイドさんたちと長い距離を歩いた記憶があります。
ネパールはヒマラヤ山脈と言う大自然の遺産を持ち、「徒歩の国」と言う文化が彼の国を支えておりました。しかし、徒歩の国が崩壊した後は自然破壊など一顧だにしない道路建設が進行し、徒歩の国を埃と排気ガスの世界に変えてしまいました。そりゃ、運搬する量も速度も比較にならない程の発展でしょうが、ネパールに行くたび寂しさを感じる様になってしまいました。もう、後戻りはできませんし、ネパールでは初めてのトンネル工事も進んでおります。如何か落ち着いた発展が進みますよう祈っております。
それと、指導者やお目付け役がいなくなると、彼の国は途端に昔へ戻る習慣がありますね。例えば、以前にも報告したムスタンのMDSAを率いていた近藤亨氏が亡くなり10年近くなりますが、現地には彼の銅像が残るのみで、革新的な農業技術は継承されているとは思えませんでした。確かに彼が興した農場は残り、彼が建設した学校などは現在でも現地に残り機能しておりましたが、彼が現地の人々に残した農業技術は継承されてはおりませんでした。
摘果や枝打ちなど近代技術を駆使して作られたリンゴは、同じ地区で作られるリンゴに比べ4倍もの値段で取引されておりました。摘果で粒を制御するため一つひとつが大きな粒になるからです。リンゴ4個で100円とすると近藤農場のリンゴは一個で100円になるのです。すると、現地の人たちは一個より4個の方が良いと言って、小粒なリンゴを数多く買い求めるのです。現地の軒先を覗いて見ると、小粒のリンゴが袋詰めで売られておりました。数の多い方が人気が有るのです。まあ、これは数千年前からの習慣ですから直ぐに変えるのは難しいのでしょうね。
我々が資金を出し合い建設した学校も同じでした。小学校から高等学校までを現地に造り、地域の教育センターのようになって欲しいとの望みはあったのですが、久しぶりに見る現地は寂しいものが有りました。当日はネパール最大のお祭りである「ティファール」の休みで生徒はおりませんでしたが、現地での案内はしてもらいました。突然の訪問で驚いた模様でしたが、鉄筋コンクリート造りの高等学校棟は、一部が物置になっている模様で、その機能を果たしているとは言い難い状況でした。
まあ、毎年、グループを組んで視察に訪れておれば、状況は変わったのでしょうが、現地視察などと言う重しが取れると、その活用も鈍るのですね。怒りを胸にその場は立ち去りましたが、途中であった子供たちの笑顔は昔のままでしたね。まあ、「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」と言いまして、過ぎた昔を乞うるばかりが人生ではありませんが、今回も寂しい思いを残し帰宅してしまいました。
カトマンズの朝雨 潤 軽塵(カトマンズの朝雨軽塵を潤し)
客舎 清々 柳色 新(客舎清々柳色新たなり)※客舎:宿の事
勧君 更 盡 一杯酒(君に勧めん更に尽くせ一杯の酒)
西 出 ローマンタン 無故人(西の方ローマンタンを出れば故人無からん)
中国の詩人「王維」が詠んだ別れの詩へのパロデイです。如何でしょうか。
令和7年11月20日 毛利