皆さん、お元気ですか。このところ、本紙の報告が滞っておりました。原因はネパールへ12日間も滞在していたことに加え、使い尽くした体力の衰えに追い打ちをかけた風邪によるものでした。私は「ネパール風邪」と呼んで喜んでおりましたが、歳と共に衰える体力にも限界を覚えました。情けないですね。まあ、そんな事で停滞した報告を再開したいと思いますが、差し当たっては今回のローマンタンへの紀行報告です。世に「幻の王国」と呼ばれたムスタンでの紀行文ですが、念願が叶っての紀行でした。二回に分けての報告となりますのでご了承ください。今回も毛利のアドレス帳に載っている方々へBCCにて配信しております。メーリングリスト該当者は外したつもりでしたが、混入しておりましたらご容赦ください。
思い起こせば、ネパールの地に足を踏み込んだのは6年ぶりとなります。技術研修生を求めて三重県のHONDデイラーの社長たちとの旅でした。近年、日本人で自動車整備士を志す若者が少なくなり、海外からの技術者に頼らざるを得ないと言う事でネパールに目を向け「彼らを日本に呼び日本語と自動車技術を教え込み、国家試験の2級整備士を受験させ、合格させてから自分の会社で雇いあげる」と言うプロジェクトでした。当然、この間の費用はHONDが持ち、待遇も日本人と同格にすると言うものでした。
カトマンズの友人に打診したところ快諾を得たので、彼らは名古屋のセントレア空港から私は羽田からと別々なルートで香港空港で落ち合いました。ネパールのトリュビバン大学や専門学校などを訪問し、学生たちに話しかけを行い手応えを得て、英文のパンフレットを作製した途端にコロナ禍に包み込まれ、プロジェクトは行き詰まってしまいました。しかし、企業は日本在住のネパール人に声掛けをして人材確保に繋げておりました。
まあ、それ以来と言う事もあり「ネパール市街は奇麗になっており生活も衛生的に成って、道路も整備されているのではないか」との淡い期待を持っていたのですが見事に裏切られました。建物などの近代化は進みそれなりに美しい町並みにはなっておりましたが、道路などのインフラ整備はまだまだでした。特に顕著なのが彼らが誇るハイウエイです。彼らが呼ぶハイウエイとは自動車が走れる道の事で、我が国で言う高速道路とは全く別なものです。
ネパールは10月10日に雨季が明け乾季に入ったばかりでした。雨期の間、雨や洪水に洗われた道路は至る所で崖崩れの痕跡を残したままですし、通行車両の都合など一顧だにしない工事が渋滞を加速させておりました。酷い時は2時間もの間通行を遮断しての工事もありました。恐らく擁壁など崖崩れを防止する工事より、崩れるのはやむを得ないから崩れるに任せる、そして、その普及を早めた方が安く着くとでも考えている様でした。
特に、今回は「幻の王国」と呼ばれたムスタンの首都ローマンタンを目指す旅でした。カトマンズでチャーターした四駆のランクルが移動手段と言う事もあり、全ての行程が自動車と言う過酷な旅でもありました。カトマンズからネパール第二の都市ポカラまでが200km、ポカラからカリガンダキ川との合流点ベニーまでが60km、カリガンダキ川を遡った中流地点のジョンソンまでが60km、そしてジョンソンからローマンタンまでが72kmで、片路400km以上でその殆どが悪路でダートなのです。
舗装されている道ですら崖崩れで交互通行を強いられ、重機で崩落地を切り開いた道路をひたすら走らなければなりません。道路も川に沿ってうねうねと続き坂道も多い道路です。その様な道を積載オーバーのトラックが当たり前に走り、これまた積載オーバーのトラックが追い越しをかけ、二台とも立往生するなど日本では考えられない交通事情もありました。何と言ってもネパールにはトンネルが一本もなく、全てが開削された道路となっております。彼の国を私は「徒歩の国」と呼んでおりましたが、その道を広げただけの道路ですので、トンネルなど生まれる訳も無いのであります。
橋は吊り橋が主流でもっぱら人とキャラバンの駄獣が使っておりました。自動車道が開かれると、簡単なトラス橋が架けられ橋の表面には鉄板が敷かれておりました。今では達筋コンクリートの橋も目立つようになりましたが、現場打のコンクリートなため、その品質が問われるとの指摘もあります。兎に角その打ち継ぎ目などは心配を与えるに十分な雑さでしたね。
憧れのローマンタンは既に近代化した街に生まれ変わり、秘境と言う雰囲気ではありませんでした。昔は徒歩で、行きに5日帰りに5日で往復10日以上ないと行くことが出来なかった地も、自動車を使えば一日で辿り着きます。旧王宮や数多く点在する寺院を案内して頂きましたが、無信心な私にとっては苦痛でもありました。ホテルのベッドには電気毛布が備えられており、文明の利器を使っての宿泊となりました。
翌日はチベットとの国境まで車を走らせましたが、500ドルの入域許可証は途中までで、ボーダーの14km手前で我々は返されました。ネパール人は通行が可能と言う事で、陸路でチベットへ入域するトラックも多かったですね。一説によれば「中国政府は一帯一路の一環としてこの道を整備しているが、本来は来るべきインドとの戦争に備え、戦車も通れる高規格道路となっている」との説もありましたが、見た限りではその様な野望が潜んでいる道路には見えませんでした。しかし、彼らは何を考えているか分かりませんので要注意です。
と、第一弾は此処までとします。現地の実状などは次回とします。凡そ33年に渡りネパールを見て来た私にとっては、恐らく最後の旅になるかも知れない旅でした。「徒歩の国」から自動車道への変遷も見て来ましたが、キャラバンによる旅の方が私には向いているように感じました。
令和7年11月7日 毛利