毛利顧問の”皆さんお元気ですか”

毛利顧問の”皆さんお元気ですか”

皆さん、お元気ですか。今回もネパールツアーの続編です。条件は同じです。お楽しみください。

 ネパール国内のWi-Fi網は整っており、気の利いた宿や食堂でも気軽にアクセスできるようになっております。その為、食事を待つ間にでも日本などとの通信が可能なのです。但し、そのエリアを少しでも外れると途端に網から外れてしまいます。また、電波も弱く多くの方が使い始めると通信速度が落ちてしまいます。そんな訳で、世界の秘境と言われるローマンタンからも、画像などの送信が可能なのです。便利になりましたが、便利になりすぎです。

 カトマンズからローマンタンまでの街道は130年ほど昔、河口慧海が歩いた道で、今でもその偉業をたたえるレリーフなどが残っております。ローマンタンの少し南にツアランと言う村があります。慧海が鎖国中のチベットへ潜入するため10か月間この地に滞在し、抜け道を探していた村でもあります。ここでも慧海は村人たちに慕われ、村を出る時は総出での見送りを受けたとの事です。そこにも日本人によるレリーフが設置されており、ジョンソンの南のマルファ村には「河口慧海記念館」が建っており資料などが展示してあります。

しかし、その展示品も年月を経るごとに少なくなっているのを観るのは寂しかったですね。昔はカメラや仏典も多く有ったのですが無くなっておりました。私がこの記念館を訪ねたのは3回目ですが、館内には彼が使ったカメラや仏典の一部が展示されておりました。今回行ってみるとカメラなどの貴重品は展示されておらず、彼が残した辞世の句「ヒマラヤの雪の岩間に宿りては やまとに上る月をしぞ思う」が書かれた色紙もあったのですが無くなってましたね。以前は仏典も壁の棚に収められていたのですが、今回は空になっておりました。何処かに貸し出し中であれば諦めも着くのですが、管理が不十分との印象は否めませんでした。

 ジョンソン街道と呼ばれるキャラバンルートは太古の昔からチベットとインドを結んでおりました。チベット側からは岩塩がインド側からはコメが運ばれていたのです。途中の村々にはこれら駄獣を囲い込むコラルがあり、牛や馬も一晩の宿に浴していたのです。30年前、これ等のルートを徒歩で移動した際、宿泊した事のあるロッジが見えました。ランチを兼ねてそのロッジ女主人に当時に撮った子供たちの写真を見せたところ、大いに喜び「この真ん中が私の夫。そしてこの子は・・・・」と全員の消息をスマホの画面を示しながら教えてくれました。写真が載っている本は差し上げましたが私も嬉しかったですね。

 日本にも「梅雨明け10日」と言って天候が安定する時期があります。ネパールも雨季が明けたばかりの頃は天候が安定し、遠くの山並みまでが見える時期があります。また、自動車道の発達でカトマンズヴァーリ(カトマンズ谷)周辺の峠や丘が開発され、風光明媚な地は現地の観光地として発展したおりました。そこに登れば遠く西方にはアンナプルナ山群やダウラギリが拝め、ヒマリチュリ、ガネッシュヒマールと続き、ランタンリルン、ガウリシャンカール山群などヒマラヤの山群が見え、東方彼方にエヴェレストを含むクンブの山並みが見えておりました。さらに東を望めばジャヌー&カンチェンジュンガの山並みが見えるはずでした。しかし、当日は白い雲の塊が見えるだけで、山を見ることは叶いませんでした。これ程の景色をカトマンズ谷から眺めたのは、30有余年通い続けて初めてでした。その地域には20mを越える展望塔も建てられネパールの人々で賑わっておりました。

ネパールには温泉が無いと言えば皆さんに驚かれます。しかし、あれ程の造山活動が有れば何処かに歪が出てマグマだまりも発生しやすくなるのは必定なのであります。ネパールで唯一、温泉の湧く場所がジョンソン街道の一角にあるのです。現地の言葉でタトパニと言いますが、タトが熱いパニが水と言う事で、読んで字のごとく熱い水と呼ばれる地域になっております。

昔はカリガンダキの河原を囲っての浴槽でしたが、今は川の上流地点に浴槽も移転し、長大な吊り橋を渡っての入浴となっておりました。海外の旅人は150ルピ(凡そ150円)を払わなければなりませんが現地の人は無料です。但し、水着の着用は義務でした。西欧の人が多く現地の方たちも喜んで入浴を楽しんでおりました。

この水着が飛んでもない幸運をもたらしたのです。タトパニで一泊し翌日はポカラです。ポカラ市街へは午前中に着きましたが、ランチはフィッシュテールホテルでのレストランで頂きました。ネパールで初めて魚類の料理を頼んでみました。ソースと油で焼いた魚でしたがこれが美味で驚きました。宿泊したホテルは地元でも知られた高級ホテルで自慢はホテル内の屋外プールでした。

何で海にも面していない山国のネパールでプールなのだと不思議に思いますが、今、ネパールではホテルの高級感を演出する象徴がプールになっているのです。カトマンズのホテルでも同様の光景を目にしました。ボンボンベッドの上に横たわり、プールで泳いでは休憩しましたが、西欧からの客の中にも水着を準備している人がおり、結構賑わっておりました。乾季のネパールは太陽光も強く「太陽がいっぱい」の雰囲気はありましたが、何故に、この大陸の最奥の水の乏しい地にプールなのかは不明でした。

 最後に、報道されていたカトマンズの暴動です。急速にスマホの普及が進んだネパールでは、スマホは欠かせないアイテムとして人々の中に溶け込んでおります。それに規制を掛けようとしたのが暴動の切っ掛けでした。しかし、人々は政府高官が不正を働き、政情も賄賂が幅を利かせていることを知っていたのです。その為、各地で暴動が起き、高級デパートや政府高官の家などが焼き討ちに会ったのです。先に書いた景勝地に建った高官の別荘は元より、彼らが豪華な生活を営んでいた官舎が焼き討ちに遭ったのです。

現地の友人で今回の企画を手配してくれたラマ氏の家の傍に、焼き討ちに遭った建物が残っているとの事で現地を見に行きました。高級住宅地の高台にそれらの建物は煤けた姿で残っておりましたが、現地の人々の家に比し数倍の面積を有し、優雅な生活を営む彼らが金と賄賂で築き上げた地位で有る事をネパールの人々は知っていたのですね。

令和71110日  毛利

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