皆さん、お元気ですか。今年も忙しい年でしたね。今回は何もないので、今年を振り返って見たいと思います。私のメーリングリストに載っている方々にBCCにて送信しております。
今年の年頭の決意の言葉は「山」でした。言わずと知れた「風林火山」の「如不動山」(動かざること山の如し)からの言葉であります。齢82を迎え、ちょこまかと動く生活から、どっしりとした自分を目指すつもりでした。しかし、年末にあたり一年を振り返って見ると様々な場所に出かけてましたし、毎日飲んでましたね。年頭の決意とは裏腹な一年になってしまいました。
今年の手始めは2月から3月にかけてのスピッツビルゲン島でした。北極点に一番近い島に上陸し、極寒の北極圏を歩き、北極の雰囲気を味わうと言うものでした。これで、16年前に南極にも上陸しているので。南極と北極の両極を極めたと喜んでおります。
ガイドに導かれて島内の氷河を歩きましたが、すっかり冬山登山の雰囲気でした。島内に出没するホッキョクグマに備え、グループの先頭と最後尾にはライフル銃を持ったガイドが付き添い、75m以上離れていればOKだが30mまで近づいたら威嚇弾を発射するのです。この威嚇弾は轟音と共に花火が発射され、熊を驚かせて退散させるのが目的です。それでも15mまで近づいたらライフル銃で射殺しても構わないと言う事で、出発前にライフル弾5発を装填した銃を見せてくれました。
まあ、この島は島民が居住する場が限られており、その区域から外に出る時は必ず銃を持った人が同行しなければなりません。犬ぞりに乗った時も銃が携帯されておりました。犬ぞりはそりの後方にある板状のブレーキを踏み込みつつ速度を調節します。慣れてくると面白いものです。走っていると雪原の彼方からトナカイの群れが近づいてきたりと野性味満点でした。
次に完走したのが「旧甲州街道を歩く会」の日本橋から下諏訪までの行脚です。一昨年に日本橋から富士山頂を極めておりますので、今回は甲州街道と富士街道の分岐の地大月から下諏訪まででした。初回が昨年(令和6年)4月28日大月宿から:笹子宿へ、笹子峠越えがダイナミックで良かったですね。2回目が昨年の5月19日で笹子宿から甲斐大和宿まで、3回目が9月29-30甲斐大和宿から石和宿までで石和温泉に宿泊して、翌日石和宿から石崎宿と2日間の行程で行いました。この様に、これ以降は目的地が遠くなるため宿泊を伴う旅程とし、4回目が12月8-9日とし石崎宿から韮崎宿へ、宿泊は韮崎の宿とし翌日は韮崎宿から小淵沢駅としました。
この行程の途中にサントリーの白洲工場があるため、この施設に立ち寄り「試飲」をして小淵沢駅から東京に戻りました。この様に途中にある酒蔵とか洋酒の工場は全て訪問し、古来からの味に舌鼓を打つのがこのツアーの良いところであります。5回目が今年の3月9-10日で島原宿(白州サントリー工場前)から富士見宿へ、翌日が富士見宿から茅野宿までとしました。
そして最後の6回目は茅野宿から下諏訪宿までです。4月4-5日の行程でしたので、恐らく桜が咲いているのではないかと期待していたのですが、諏訪の街は寒いのですね、未だ、梅の季節でした。旧甲州街道は日本橋から下諏訪を通る中仙道に合流するところまでですので、お江戸日本橋から下諏訪まで53里24町ですから現代風に換算すれば208kmもの長さになります。この間を昔の人々は5-6日で歩いたと言われております。
折角下諏訪まで来たからには諏訪大社の参拝は欠かせません。諏訪湖を囲むように配置された上社前庭と本宮、下社春宮と秋宮の四社からなる神社で、創建は古く古事記の神話に遡ると言われ国内でも最も古い神社と言われております。国内には一万社以上の諏訪神社があるそうですが、その総本山が信濃の国一宮である諏訪大社と言われております。下諏訪追分を出発点とし下社春宮と下社秋宮を参拝し、列車で茅野まで戻りタクシーも使って上宮本宮と前庭に参拝して帰宅しました。諏訪大社は広いですね。
次いで挑んだのが「八幡平のドラゴンアイ」ツアーです。宮城県気仙沼港を手始めに、三陸自動車道と東北自動車道を駆使して遠野市で曲り屋を観たり小岩井牧場の歴史的建造物に触れたり、岩手山の山麓を周遊して八幡平でドラゴンアイを見物し、秋田県に入り十和田湖に遊び奥入瀬渓谷を散策して帰宅する行程でした。二泊三日で東北をほぼ縦断する旅でしたが、充実した旅でした。
次いで5月末から6月1日の卒業生たちと挑んだ高田城ロードレースは雨に祟られましたが、卒業生たちとの懇談(飲み会)が楽しかったですね。とんぼ返りで翌日は御殿場に泊まり、翌3日に行われた東富士演習場での富士総合火力演習を見学しました。あいにくの雨でしたが戦車から繰り出される砲弾の音閃光には驚きでした。そして6月20-21日は中学時代の仲間との「サクランボ狩り」で、上ノ山温泉まで出かけました。現地では山形在住の仲間も駆け付けてくれました。
9月に入れば、15-16日が都立工業高校の校長仲間のOB会です。早川の漁港に集まり、漁師の「賄い飯」で飲み、箱根に出て仙石原温泉に宿泊しました。翌日はロープウェイで大涌谷に至り「黒い温泉たまご」を食しながら飲み、小田原で「解散パーティ」と称して飲みました。参加者の中では最高齢でしたが、飲む量は負けませんでした。
10月5-6日は研修旅行会で測量の大先輩「伊能忠敬」と、彼が住んでいた佐原の歴史散歩です。この旅行会は20年近く続いている行事で、北は北海道から南は沖縄までの名所を訪ね歩きました。各地区の校長のOBが企画運営するものでしたが今回で閉じる事になりました。高齢化が原因ですがやはり寂しいものが有りますね。本件については後日詳細を報告したいと思っております。
そして既に報告してある「ネパール・ローマンタンへの旅」です。旅行日は10月11日から22日までの12日間でした。この他にも日帰りで山形を往復したのが2回、一つは法事でもう一つは「82歳を突破した事を祝う会」での日帰り行脚です。行脚とは本来徒歩で各地を旅する場合に使われますが、今では「めぐり歩く事」にも使われておりますのでご容赦下さい。20人が集まりました。
何故に日帰りだったのかと問われれば(誰も問うてはおりませんが)会の翌日が人間ドックの日と重なっていたからでした。山形発の新幹線最終便で東京駅に着いたのが23時30分で翌日は8時からの「胃カメラ」でした。モニターに映る胃の中は前回より黒ずんでおり心配しましたが無事でした。皆さん、よいお年をお迎えください。 令和7年12月25日 毛利