毛利顧問の ”皆さんお元気ですか” 令和7年10月10日

毛利顧問の ”皆さんお元気ですか” 令和7年10月10日

皆さん、お元気ですか。33年に渡り関係を持ってきたネパールへの最後の旅を明日に控え、過ぎにし方を懐かしんでおります。某研究会のイベントでの参加が初めでしたがすっかりはまり込み、気が付けば30年以上となっております。現地に小学校を造ったのを手始めに、同一敷地内に中学校を建て、そして同じ場所に高等学校まで造ったのであります。学校建設には25年を要しましたが、コロナ禍以降は足を運んでおりませんので、その辺りの視察も兼ねております。

しかし、今回のメーンは前回などの文で紹介した「幻の王国ムスタン」への旅です。長年の夢でしたので楽しみです。現地の友人からはカトマンズやムスタンの情報が届いておりますが、暴動についてはマスコミを揺るがすほどに伝えられましたが、つい最近の話題はカトマンズに降ったゲリラ豪雨です。カトマンズ盆地に通じる道路が全て冠水し、陸の孤島になっているとか隣接するチベットには大雪が降ったなど不安材料ばかりでした。それでも行ってきます。などと、ネパールツアーを切り口に、毛利のアドレス帳に載っている方々へBCCにて配信しております。メーリングリスト該当者は外したつもりでしたが、混入しておりましたらご容赦ください。

 

前回及び前々回の文中に河口慧海と言う名を連発しておりましたが、彼の名前はこれまでも何度か登場させていたのですが気が付いておられましたか。彼は日本では仏典を日本に運んだ高僧として知られておりますが、世界では探検家として知られております。何故に探検家かと言えば、仏典を入手するために、当時は鎖国の真っただ中にあったチベットに潜入・入国し、ダライ・ラマ13世の信頼を得て経典を日本に運んだためであります。

彼がチベット行きを決意した時、彼は既に本所の「五百羅漢寺」の住職の地位にあり、冒険などに足を踏み入れる必用も何もなかったのであります。言ってみれば生活も名誉も全てが揃っていたのです。しかも、歳は若干31歳と将来を宿望される身でもあったのです。しかし、彼には「日本の仏典は中国を経由したものであり、漢語の訳文に過ぎない。本物の仏典に接しその真意を知りたい」との望みがありました。

 

決意すると同時に行動を起こし、明治301897)年74日に単身で神戸港を発ち、インドでチベット語やネパール語を学び、凡そ3年後の612日にジョンソン街道のマルファ村を最後の休息地として山(ヒマラヤ)に挑み、トルボ地方を経由して、チベットの西端に辿り着いたのであります。マルファ村を発って実に23日を要しての冒険行は、彼が著述した「チベット旅行記」に載っておりますので興味のある方はお読みください。

 

彼が歩んだであろうジンソン街道の輸送は、30年前までは牛馬やヤクの群れが荷を運ぶキャラバン隊だったのですが、中国が進める「一体一路」の計画に乗り、今では自動車道が出来、砂塵をまき散らしながらの街道となっております。ダイナマイトと重機により作られた道路は舗装なども無く、降りしきる雨に洗われ大きな凹凸を持つ道路となっております。しかし、輸送量とスピードは比べ物にならないほど多いため、人々から苦情の出ることは無いと言う事です。私は、彼のキャラバンと共にこの街道を歩いた事があるため、騒々しさには着いていけません。まあ、旅行者の単なるノスタルジーかもしれませんね。

チベットに着いた慧海は先ずカイラス山に向かい、そこを参拝したのちチベットの首都だったラサに向かっております。ラサではセラ寺と呼ばれる寺での修行に明け暮れたとの事です。セラ寺には二度ほど足を運びましたが、今でもチベット仏教の修行の場として、若い僧侶たちがオレンジの僧衣を身に纏い、野外の論戦に精を出しておりました。年に一度ですがこの論戦の大会が行われ、優勝した僧侶には「ラマ」と言う称号が贈られるとの事でした。

 

二度目に行った時は彼らが精神集中を図るため作る「砂曼荼羅」を見せてもらいました。初めて行った時はその作成中で、息を吹きかけただけでも舞い上がりそうな砂の粉を、息をひそめて配色しながら絵を描いておりました。彼らの食事も試食できるとの事で頼んだところ、雑炊のような盛りっきりの食事でした。味は良かったですね。慧海が修行していた頃は約5000人もの修行僧が居り、互いに切磋琢磨していたとの事です。食事も同じだったのでしょうか。気になります。

 

セラ寺のあるチベットの首都ラサも大きく変わっておりました。ダライ・ラマの居住地であり政治の中心だったポタラ宮殿の周囲には、広大な広場が設けられており、その場が緑地化されておりました。ロンドンのトラファルガー広場、パリのコンコルド広場、モスクワの赤の広場、北京の天安門広場、ワシントンの緑地帯ナショナルモールそして東京の皇居前広場など、いずれも首都にある広場で、周辺には政府関連の建物や博物館そして美術館などが建っておりますね。チベットにもこの様な広場が整備されておりましたが、博物館は見当たりませんでした。まだ、文化の浸食までは至っていない模様です。

 

30年ほど前はジョンソン街道の北端はカグベニ言う村でしたが、今は、幻の王国だったムスタンの首都ローマンタンになっております。キャラバン隊の頃は、カグベニからローマンタンまでは4-5日の時間が必要でしたが、自動車道を使えば一日で済むのです。今回の旅はこの自動車を使っての旅となりますが、行くことが出来ると言う事で満足しております。但し、標高は富士山頂より高い処を歩くため油断はなりません。気を付けます。

令和7年10月10日

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